大使に就任してから、いろいろな仕事を求められた。その中で最も多かったのが、人前で話すということだった。大使としての「言の葉」の披露である。幼い頃は人前で緊張することもあったが、いつ頃からか大勢の前で話すことに何の抵抗も感じることがなくなっていたので、毎回、挨拶やスピーチを楽しんだ。
会食での簡単なスピーチなど、即興で挨拶が求められるだけでなく、各種式典やレセプション、シンポジウムでは本格的なスピーチが求められ、しっかりと原稿を用意して臨む必要があった。
ただ、これは、考えようによっては,実に貴重な機会である。会場にいる数十名から、時には数百名に至るまでの聴衆が、粛然として自分のスピーチを聞いてくれる。こんな貴重な機会はそうそうにあるわけではない。単なる時候の挨拶や日中友好の美辞麗句で終わらせていいのだろうか、常にそう思っていた。
スピーチ原稿を用意する際に、私はスピーチしている自分を想像し、その場に最もふさわしいメッセージを贈れるよう、常に心がけてきた。どういうメッセージがその場にふさわしいか、ときには何日もかかって考え抜いた。同僚が用意してくれた原稿案を、直前まで何度も推敲し、毎回跡形もなくなるほど書き直すことになった。
私は大使在任中、主に二つのメッセージをスピーチに込めた。
ひとつは、歴史的観点から日中関係を考察すること、とりわけ日中両国の歴史は千年以上にわたって、助け助け合い(守望相助)の歴史であることだ。鑑真、空海、鄭成功、隠元、羅森、梁啓超など歴史上の人物が残した日中交流の物語が示すように、永遠の隣人である日本と中国の関係は、千年以上にもわたり、互いに助け合う人間ドラマが連綿と紡がれた関係にある。また、こうしたドラマは現在も進行しており、今を生きる我々もまた、このドラマの登場人物のひとりであるということを訴えてきた。
もう一つは、日中関係への警鐘である。日中国交正常化から五十年を経たにもかかわらず、日中関係は成熟するどころか、ジェットコースターの如く、浮き沈みを繰り返してきた。『論語』では,「五十にして天命を知る」と教えるが、日中関係はいまだに行くあてもなく彷徨っている。私が大使を務めていた時期も日中関係は厳しい状況に直面していた。中国当局は、日中間の低調な政治の雰囲気をともすれば民間交流や地方交流にまで影響を及ぼし、交流を阻止しがちであった。こうした状況に対し、日本国の大使として物申す必要があった。ただ、そうした場合においても,可能な限り、中国の古典や周恩来総理の言葉を使って、問題意識を投げかけるような配慮を怠らず、「言の葉」を最大限駆使した。
拙著は、私の外交官人生の締めくくりである、駐中国日本国大使時代に発信した主要なスピーチを取りまとめたものである。いわば「言の葉」に託した私のメッセージの集大成である。拙著の上梓にあたっては、日本僑報社の段躍中夫妻に対し、心から感謝を申し上げなければならない。段夫妻は、現役時代から私の「言の葉」に注目し、退任直後にはそれらをまとめることを強く薦めてくれ、私が何度も挫折しそうになっても、その都度献身的に支えてくれた。段夫妻の強い意志と協力がなければ、拙著は上梓されなかったであろうことは特に記しておきたい。